著作権へのリスペクト(5)〜動画配信サイトの違和感〜

演劇からは少々離れてしまうかもしれませんが、個人的に気になっていることなので、率直な意見を書かせてい頂きます。


最近、インターネット上では、「観られないテレビ番組、観られない映画はないのではないか?」と言われるくらいに、既存の映像作品が様々な動画配信サイトに流出しています。

私はこの事態に対しても、非常に強い憂いを抱いています。

もちろんクリエイターの中には、「著作権など気にしないし、自分の作品が流出しても構わない。むしろ宣伝になる」と公言されている方もいるでしょう。しかし、そういう個別具体的な事例があったとしても、著作権の無断使用が犯罪であるという価値判断は変わりません。

それに私自身の感覚でいえば、自分の関わった作品を、許可もなく誰かが勝手に配信してしまうことには怒りしか覚えません。言語道断ですし、普通の状態とは思えません。


以前、既存の映画を無許可で配信している動画サイトの代表者が、「ユーザーの皆様に楽しんでもらいたい」的な発言をしているのを何かで読んだ記憶がありますが、もし本当にそう思うのであれば、ご自分で映画館を買って、ユーザーの皆さんを無料で招待されたらいかがでしょうか?
「なにを小松は、子供染みたことを言って……」とお叱りを受けそうですが、著作者人格権云々は別にするとしても、創作者側はそれを発表するシチュエーションも同時に想定しながら表現の取捨選択をしているわけで、(映画であれば、映画館かDVD、もしくは正式な手続きを踏んだ上でのネット配信)、その点を無視した形で作品を世の中に無断で公開することは、あまりにも礼節を欠く行為です。
「観たい人が、都合よく便利に観られた方がいい」という主張もあるのでしょうけど、それは消費者の傲慢というか、許容範囲を超えた“わがまま”だと私は考えます。


極論に聴こえるかもしれませんが、著作権違反に関わることを認識していながら、そのような動画配信サイトを利用している消費者も、犯罪の片棒を担いでいることになるのではないでしょうか?
スーパーから盗まれた魚だと知っているのに、無料だからといってそれを食卓に並べ続けている一部のユーザーを、『善意の第三者』と呼ぶことはできないでしょう。


そもそも創作者側の権利が守られなくなれば、この先、どんどんとクリエイターが活躍しにくい、生まれにくい環境が加速するでしょうし、大仰なことを言えば、“表現文化”の衰退にさえ繋がる気がします。

無法地帯が個性のように言われるインターネット社会ですが、(私を含む)消費者全体の著作権リテラシーを向上させていくことで、「昨日公開された映画が、今日には無断流出している」という現状に歯止めをかけていきたいと思います。

基本的人権と同じく、著作権などの“職業的な権利”もきちんと守られる社会に日本が成熟していくことを切に望みます。


著作権へのリスペクト(4)〜表現者としての誇り〜

前回は音楽の無断使用について私見を述べさせてもらいましたが、小劇界における著作権絡みの問題は、(悲しいかな)音楽の無断使用にとどまらず、脚本創作においても垣間見ることができます。
私自身のこれまでの小劇体験を紐解けば、既存の作品を安直に“パクッた”脚本と出会う確率は決して低くありませんでした。


もちろん、パロディや換骨奪胎がイコール著作権侵害になるというわけではないことは理解しています。
著作権侵害が原則親告罪であることも考慮すれば、自分のアイディアを盗まれたわけでもない私が、この件に目くじらを立てていることに違和感を覚える方もいるでしょう。


繰り返しになってしまいますが、誤解のないように、もう一度書かせて頂きます。
私が声を大にして訴えたいのは、著作権侵害に関わる法律論争ではありません。
脚本にしても音楽にしても、『作者の許可も無く、既存の作品を勝手に、かつ安直に使えてしまう』という姿勢そのものに怒りを感じるのです。
そういう人たちに対して、私は「表現者としてのプライドや責任感が欠落しているのでは?」と疑問を投げ掛けたいし、むしろ表現に携わる資格がないとさえ思ってしまいます。


そのような“プライドなき姿勢”を正すひとつのツールとして、私は著作権リテラシーに期待を寄せています。
著作権に関することを皆で勉強することで、創作時における安直な無断盗用が少しでも減ればよいと考えています。
結果手にそれは、自身のオリジナリティを妥協なく探求することにつながり、小劇場のクオリティを飛躍的に上昇させる起爆剤になるのではないでしょうか。


また、著作権の知識がなくて、まったく無自覚で盗作をしてしまうケースについても考えておきたいと思います。
これは私自身の反省の弁でもありますが、やはり演劇というコンテンツに関わると決めた以上は、自分から著作権について勉強する主体性を持つべきです。
未成年であれば、それこそ「知りませんでした」で許される部分があるのかもしれませんが、小劇の大多数は二十歳を過ぎた“いい大人”なわけだから、「知りませんでした」ではいささか情けないと思います。


(私も含め)小劇場に関わる人たち自身が、今まで以上の繊細さで、著作権……というか“他者の創作物”に対して敬意を払うべきです。
それはつまり、最終的には自分自身の作品を守るということにもなるでしょう。

自分自身の作品を大切にし、それと同じく他者の作品も大切にする。

そういう誠実さ、謙虚さが、今の小劇場に求められている『創作の出発点』なのではないでしょうか。

著作権へのリスペクト(3)〜尊敬が故の無断使用?〜

既存の楽曲を無断使用していた小劇関係者が、以前、こんな言い訳を口にしていました。曰く、「無断だろうがなんだろうが、その曲の宣伝になるからいいじゃないか」―――。


曲の宣伝になることと、その曲を無断で使用している犯罪性については、きちんと分けて考えるべきです。
店先から万引きした商品を他の土地で宣伝したからと言って、万引きという罪が相殺されるわけではありません。そもそも「宣伝効果」を主張するなら、曲の使用料を払って、正々堂々と曲名を明記した方が、観客にも親切です。


また、「宣伝になる」という意見を別の角度から見れば、それは「無断使用という方法を宣伝している」ことにも繋がると思います。
楽屋を訪れた関係者が、「あの曲良かったですね。え、著作権の申請はしてないんですか。じゃあ、私たちも無断で……」というような連鎖が生まれることだって否定はできません。そういう場面において、「私たちはきちんと許可をとって使っています」と胸を張れる劇団が増えていくことを心から願います。


宣伝効果とは別に、「曲を使ったのは、作曲者へのリスペクト」との暴言を耳にすることも少なくありません。だったら、なおさら作曲者の許可を取るべきではないでしょうか。
「尊敬しているから盗む」のではなく、尊敬しているからこそ、所定の手続きをとって使用料を納めるべきでしょう。


著作権の無断使用に関しては、いろいろな人が手練手管で言い訳を重ねていますが、どういう自己正当化があろうとも、「著作権侵害は良くない」という社会的コンセンサスは崩すべきではありません。
悪いことは悪い。その線引きだけは譲れません。


著作権を払っている団体と、そうでない団体が外観では区別できない不透明性も問題だと思います。その点についても、今後解消していくべきでしょう。


著作権料を真面目に払っている劇団と、払っていない劇団との区別が付かないのであれば、真面目に払っている方が損をしている感は否めません。
もちろん、金銭的な損得など考えず、理念として主体的に法令を守る姿勢は素晴らしいが、それでも何か割り切れない感情が私の中には残ってしまいます。正直者がバカを見るような社会にはなってほしくありません。


世の中に対して、劇場に足を運ぶ観客に対して、「この劇団は著作権をリスペクトしているのか否か」という情報がクリアになれば、小劇場界における著作権への意識も高まるだろうと期待しています。

著作権については、もう少し語らせていただきたいので、このテーマは次項へ続きます。

著作権へのリスペクト(2)〜難解すぎる著作権〜

音楽著作権の無断使用について警鐘を鳴らすと、「JASRACの側にも問題があるのでは?」との反論を受けることがあります。
確かにJASRACにも問題はあるでしょう。
煩雑な著作権利用システムや公正取引委員会でも問題になった包括契約など、解決すべき課題は山積みしていると思います。


しかし、JASRACに問題があることと、他者の著作権を侵害することとは次元の違う話です。JASRACに問題があろうがなかろうが、著作権侵害そのものは悪いことであり、犯罪的行為です。

個人的な想いを書かせてもうらなら、著作権の使用申請をせずに既存の曲を無断で使っている団体は、それだけで公演をやる資格がないと思います。


どんな劇団も、社会というシステムを前提とせずに活動することはできません。
つまり、どの劇団も“社会システム”から何かしらの恩恵を受けています。

自分たちは社会からの果実をむさぼっておいて、それでいて社会のルールを守らないというのは、表現者というより、人間としてあまりにも不誠実、無責任です。



ただ、そうは言っても、私自身、著作権については「よくわからない」というのが本音です。
著作権問題に興味を抱いてから、自分なりに知的所有権に関する勉強は続けていますが、とてもじゃないが「詳しい」というレベルにまだまだ達しそうにありません。
幸いにして、猪本(理想現実・座付き作家)が大学で知的所有権を勉強していた人間なので、色々と分かりやすく教えてもらってはいますが、それでも、まだまだ著作権に関しては幼稚園レベルというか、ヨチヨチ歩きです。

そんな私はJASRACにお願いしたいことといえば

「『権利料を支払って、正式な形で様々な楽曲を使いたい』という人たちへのオペレーションを、もう少し分かりやすくしてもらいたい」

という点につきます。

申請方法が複雑すぎること……、いわば『上から目線』的な印象を受ける点もJASRACへの悪評に繋がっているように思うのです。
分かりやすい申請システムを提供しつつ、かつ、クリエイターの権利をしっかり守っていく前向きな努力をJASRACには期待したい。



結局のところ、著作権への意識を高めていくためには、難しい法律論争を繰り広げるよりも、分かりやすいシステムの整備が有効だと思います。
著作権を使ったり守ったりするのは、専門家だけではありません。
市井の人々であります。
「法律に関する専門知識がないと、著作権のことは何も分からない」という状態では、法律を守るべき側の意識も高まりません。
一般の人たちに守ってもらいたいルールなら、一般の人たちが理解できる形にしていくべきだと思います。
すべてがクリアに見通せて、安心して著作権を利用できる環境が実現することを切に願うし、私に出来ることがあるなら、微力ながらも協力していきたいと思います。

著作権へのリスペクト(1)〜小劇場の無自覚、無責任〜


私自身の猛省を含めて書くのですが、小劇場界は知的所有権……特に著作権に対する意識レベルが低いように見受けられます。
著作権使用の手続きをせずに、既存の曲を劇曲として勝手に流したり、盗作ギリギリの脚本が普通に上演されてたりしています。
これでは、「小劇場の創作活動は、犯罪の上に成り立っている!」と糾弾されても仕方が無いとさえ思ってしまいます。
過去の自分を振り返れば、正直なところ、返す言葉が見つかりません。


他人の著作権を侵害する愚行(主に音楽の無断使用ですが)は、その作品を創作したクリエイターにも失礼だし、自分自身に対しても情けないと思います。
「自分たちの力で、より良い作品を創ろう!」という志があるなら、オリジナルの劇曲を用意すべきだし、それが叶わずに既存の曲を使う場合でも、著作権の使用料を納める誠実さは絶対に必要です。


小劇における著作権侵害の裏には、「面白ければいいじゃないか」という結果主義が見え隠れしているように思うのですが、その手のマキャベリズム的な考え方には、個人的には強い危惧を抱いています。
極端な例かもしれませんが、『結果が良ければ、それでいい』という考え方には、「利益が出るのであれば、汚染食材を売ってもいいじゃないか。
産地を偽ってもいいじゃないか」という社会的な無責任さを助長する側面があるように感じます。


結果だけに焦点を当てて、プロセスを不問に伏すのは非常に危険です。
結果として面白い作品ができたとしても、プロセスで著作権侵害をおかしているのなら、その作品を面白いとは言いたくないし、言えません。


私がそのような発言をすると、「だって、すべての芸術は模倣だろ?」という常套句を懐刀に、パクリや盗作を容認する諸先輩方も少なからずいます。ですが、その反駁はあまりにも短絡的です。
不勉強な私が書くのもおこがましいかもしれませんが、そもそも西洋芸術における模倣は『神(イデア)の模倣』であったり、『現実の模倣』であったりと、様々な解釈があります。
決して他人の作品を無断で模倣して、それで安易にお金を稼いでよいと言っているわけではないと思います。

第一、そのようなレトリック……言葉の使い方で問題の核心をごまかすこと自体がよくありません。
「そべての芸術は模倣」という主張があったとしても、他人の作品を盗むことは、明らかに悪いことです。
他人の権利を侵害することなく、自分の力で面白い作品を創ることこそがベスト。そのことを、私は言いたいのです。


もちろん、創作の過程において、既存の作品にインスパイアされたり、知らず知らずのうちに先達の影響を受けたるすることもあるでしょう。
そのことを否定するつもりはありませんが、私が義憤を禁じえないのは「思いつかない時は、どっからテキトーにパクッとけばいいや」という安直さであり、それを分かっていながら許してしまう小劇界の無自覚さです。

役者と観客の関係(3)〜匿名による観劇レビューの意義〜

繰り返しになって恐縮ですが、私たちが上演する作品をどう感じ、どう受けとめるかは、お客様一人一人の自由です。こちらから何かを強制するつもりはありません。

その前言を翻すつもりは全くありませんが、ただ、私は今、“観客”にまつわることで、ある大きな疑問を抱いてもいます。これから書くことは反発を受ける内容なのかもしれませんが、表現者として本心を隠すのは潔くないので、正直な思いのまま筆を進めたいと思います。

今現在、インターネット上には『匿名による観劇レビュー』が数え切れないほどアップされていますが、私はこの“匿名性”については常に批判的な立場を取っています。匿名による投稿に対して、私は特別なメリットを見出せません。

もちろん観客が感想を語るのは自由です。しかし、インターネットというパブリックな環境で、少なくとも何かについて語るのであれば、そこには発言者としての責任が付随するべきだと思います。

顔の見えないネット社会とはいえ、発言者には自身の責任を明確にしてもらいたいと思うのです。

書いた者勝ちというか、書き逃げの許される匿名性の投稿で、特定の劇団やユニットについて語るのはアンフェアだと思います。ネット上で観劇レビューを書くのであれば、最低限、自分が何者であるかを明示してもらいたい。


安全上の問題から、匿名性の有用性を主張される方もいるでしょう。
昨今の社会情勢を鑑みれば、真っ当な意見です。ネット上で正体をさらすことには、確かにある種の危険が伴うかもしれません。

ただ、そういう理由で匿名性を選ぶのであれば、むしろ情報の発信自体を行わないという選択肢も考えるべきではないでしょうか。
パブリックな場所へ情報を放つという行為は、それだけ厳しいものではないかと思います。発信者には発信者としての自覚が常に必要であり、自分が世に出した情報に対しては自分で責任をとらなくてはいけません。
素性を明かすリスクを飲み込めない発信者は、その時点で発信者としての責任を放棄していることになるので、ネット上に情報を出すべきではないと思います。

「厳しすぎる」と反論されるかもしれませんが、メリットはあるにしても、面と向かって言えないことでも自由に情報発信できてしまうこと自体が、俗に荒らしと呼ばれる行為やイジメ問題を助長させるのも事実です。
匿名性の社会的なデメリットは、そのメリットをはるかに凌駕しているように私には見えます。

匿名性なる『システム』については、ネットに関わるすべての方々にご再考を願いたい。

また、『匿名による観劇レビュー』を推進しているポータルサイトにも個人的には苦言を呈したい。サイト側は「公演の宣伝になる」というメリットを強調しているようですが、匿名性である限りは、時に悪意に満ちた営業妨害の温床と化すデメリットも否定はできません。その点のリスクをポータルサイト運営側はどうお考えなのか、一度じっくりと拝聴してみたいです。

役者と観客の関係(2)〜発信者主義〜

前回のテーマは少なからず誤解を生んだかもしれないので、もう少し丁寧に説明させて頂きます。私は観客に対して、「こういう見方をして欲しい」と強制するつもりはないし、「なんで私たちのテーマを分かってくれないんだ?」と非難するつもりはありません。

前回語ったことは、あくまで小松愛個人の表現者としての理念であり、言わば創作者側に私が求めたい視座です。
決してお客様に何かを強要したくて書いたわけではありません。お客様にはご自身スタンスで、私たちの作品を楽しんで頂きたいと思います。

そのことをご理解頂いた上で、話を続けさせてもらいます。


以前にも書いたことですが、表現とは良い意味で自分本位なものだし、そうあるべきだと私は考えています、誰かのための表現ではなく、自分のための表現です。
自分のための表現とは、すなわち「自分の訴えたいことを、世界に向けて発信できることの素晴らしさ」という意味です。


表現者は、表現に対して常に主体的であるべきです。「観客のため」という言葉を安易に使って逃げるのではなく、「自分のために」芝居を続ける覚悟こそ、表現者に求められる根本的な姿勢ではないでしょうか。

もちろんお客様は大切ですが、「どういう内容であれ、観に来ている人たちが喜べばそれでいい」という結果主義を私は採用しません。
どういう形であれ、作品に対する責任を観客側へ押し付けるような真似はしたくありません。盗作まがいの作品を上演しておいて、「お客さんが喜ぶなら、それもありだよ」なんて言い訳は言語道断です。

主体的な表現者であり続けるためには、客席からの要望に対しても能動的な姿勢を保つべきでしょう。「お客さんが喜ぶから」という理由で周囲からの要望を何でもかんでも取り入れることは、表現者としてはむしろ無責任です。
「観客のため」という美辞麗句を隠れ蓑にして、己の責任を放棄しています。
商品開発においてはマーケットアウトも大切でしょうが、表現者はプロダクトアウトの理念を忘れてはならないと思います。


まとめさせてもらうと、「お客様を喜ばすために作品を創るのではなく、自分が伝えたいメッセージを客席へ届けるために私は舞台に立っている」ということです。
だからこそ、作品に対する責任をお客様へ丸投げするようなことは絶対にしない。責任は私自身になる。

「より多くのお客様に、作品のテーマをしっかりと伝えること」に、私はとことんこだわってきたし、これからもこだわり続けたいと思います。

もちろん、その作品をどう受け取るかは観客一人一人の価値観によるところが大きいわけだから、結果だけを見れば、その道程は果てしなく険しいでしょう。
しかし私は結果ではなく、過程にこそ価値を置いています。
「どのように表現すれば、こちらの意図するテーマがきちんと伝わるか?」という難問を、創作過程において妥協なく真摯に探求し続けたいと思います。
誠実さとはプロセスの中に見出せると思うのです。

役者と観客の関係(1)〜物語を届けるということ〜


同じものを観ても、人それぞれによって受け取り方は千差万別です。
「どういう風に観て欲しいか?どういう風に感じて欲しいか?」を、表現者側が観客に強制することはできません。
そのことを前提とした上で、私なりの観客論を語らせていただきたいと思います。


『演劇の魅力は、舞台と観客の一体感である』というフレーズをよく耳にします。
私の意見を率直に書かせてもらうなら、これは観客側にのみ許された感想であって、作り手側が口にする言葉ではありません。

観客の方々が「今日は舞台と客席が一体になっていた。素晴らしかった」との感想を抱くことは一向に構いません、しかし、作り手側が「今日は客席と一体になれた、大成功だ!」と自画自賛することには賛同できかねます。
というのも、様々な人間が観に来ている以上、その作品に不満を感じたお客様も必ず一人以上はいるでしょう。
そういう不満を黙殺して、「今日は客席と一体になれた」と作り手側が安易に口にしてしまうことは、あまりにも大雑把です。
私が大切にしている“真摯さ”や“誠実さ”とは逆行する言動です。


そもそも、『客席と一体になる』という考え方自体が曖昧で漠然とした抽象論である以上、それを拠り所に作り手側が己の作品を語ることに個人的には違和感を覚えます。

「客席と一体になる」という言葉を、「お客様全員に心から喜んでもらえる作品を創る」という意味に解するのであれば、その理想は私の中にも当然の如くあるし、目指すべき方向性だとも思います。ですが、それはあくまで観念論的な努力目標であって、現実的な稽古の物差しにはなり難いのです。

そのような『結果』を我々が『プロセス』として具体的に目指すことは不可能だからです。(※繰り返しますが、努力目標としての価値は認めています)
要するに私は、自分の表現を誰かのせいにしたくないのです。
「お客様に喜んでもらうために、こういう作品を作りました」などと絶対に言いたくありません。
第一、そんな責任逃れは、観に来てくださる皆様に失礼です。
観客のためではなく、まずは私自身が良いと思う作品を、私自身の責任において創ること、それが発信者としての責任ある態度だと私は思います。


誤解を恐れずに、その点をもう少し詳しく書くとすれば、「自分が狙っていなかったポイント」をお客様から評価されても、私は素直に喜べません。
もちろん「つまらなかった」と言われるよりはいいかも知れませんが、「役者が生き生きと楽しそうにやっているのが良かった」等の感想を頂戴すると、ありがたいと思う半面「訴えたかったのは、そこではないんです」と言葉を返したくなります。
「人間が一生懸命に何かをやっていること」自体に感動してもらうよりも、キャラクターを通して物語に染み込ませたテーマ自体を感じてもらいたいと常に頭を悩ませているのです。


もちろん、「どのように観るか?」を観客に強制する権利いはないし、テーマが明確に伝わらないのは自分たちの表現力不足であることも充分自覚しているので、精進あるのみです。

役者と脚本家の関係〜すべては脚本から始まる〜


演劇界に、こんな言い回しがあります。―――「面白い脚本を役者の力不足でつまらないものにすることはできても、つまらない脚本を役者の力で面白くすることはできない」。

私はこの説を大いに支持しています。演劇作品を作るための大前提は、魅力のある脚本を用意することです。
脚本を読んだ時点ですでにその内容に惹き込まれ、「この物語なら、お客様に対して充分通用する」と確信できる脚本を用意すべきです。
役者の力量不足などによって、魅力的な脚本がつまらない作品に堕ちてしまうことはあったとしても、少なくとも脚本が面白くなければスタートラインには立てません。


言うまでも無いことですが、私は脚本の存在を大変重要視しています。
だからこそ、役者なら脚本を読んでから出演を決めるべきだと思うし、それが表現に対して責任ある態度だとも考えています。


作家の中には「役者を見てから書くのがベスト」と公言する人もいるようですが、それあなら、まずは準備稿を一本書いた後に、出演者を見ながらリライトすればよいことです。
私の知っている脚本家の中には、もっともらしい理由を並べ立てては、作品を書かない人がとても多かった。
己の遅筆をごまかす後付の言い訳はいくらでも出てくるのに、肝心の脚本は出てこない・・・ゴチャゴチャ言ってないで、とにかく一本書いてほしいものです。


名誉のために書いておきますが、理想現実の座付き作家である猪本は、その点で私が認める数少ない脚本家です。
彼はとにかくいつでも何かを書いています。
言い訳をする暇もないくらいひたすら書き続け、どんな小さな締切でも絶対に破りません。

特に私が猪本を尊敬して止まない点は、誰かに頼まれなくても、新しい物語を次々と書き続けるその主体性。
「書きたいことが山のようにある、書かずにはいられない」と公言し、それを実践し続ける彼のアグレッシブさを目の当たりにすると、ただただ頭の下がる思いです。


そもそも締切を破る脚本家は共同芸術たる演劇界には相応しくありません。脚本が遅れれば、その後を担うスタッフ全般に迷惑が掛かるし、稽古時間が減ることで最終的には役者にも迷惑が掛かる。それぞれの部署がそれぞれの締切を守って、やるべきことをきちんとやることで成り立つ共同芸術であるはずなのに、その始まりなるべき締切を破り、かつ平気な顔をしている脚本家が多いことには、ただただ呆れるばかりです。

また、それを許して今う周囲の甘さも個人的には看過できません。
「締切を破っても、面白い台本が出てくればいい」という主張は何度と無く聴きましたが、では、つまらない台本が出てきたらどうするのか?
締切を破っている分、もう本番までに時間がない。
いまさら脚本家を変える余裕もありません。「面白いホンが出てくれば……」などという不透明な結果論に頼るより、私はプロセスにおいて締切厳守を徹底したいと思います。

表現者リテラシー〜永遠に生きるつもりで学べ〜

リテラシーとは、読み書き能力のことです。前回の記事で、私は『表現者リテラシー』という言葉を使ったのですが、この場合の意味は「表現を使いこなすための知識、能力」と解してください。

まずは、私が感銘を受けたことがある言葉を紹介させて頂きます。
―――「明日死ぬつもりで生きよ。永遠に生きるつもりで学べ」。
このマハトマ・ガンジーの発した名言の中に、私は珠玉の真実を感じています。
学ぶ、勉強するという行為は、人生をより良く生きるための妙薬であるばかりではなく、表現者にとっても大変重要なテーマだと私は考えているのです。


恥を覚悟で告白すれば、私自身、昔は「芝居をするためには勉強も必要だ」と言うことさえ自覚していませんでした。「芝居のための勉強がある」という感覚さえなかったように思います。
殊更、何かを学ばなくても、小さな劇場で……狭い世界で演じている分には、何とかやれているように自分でも思えました。
特別な勉強が必要だとはまったく思っていませんでした。
これは大変恥ずかしいことであり、我ながら猛省あるのみです。


主体的に勉強を重ねていくことで、表現者としての視座を手に入れ、手に入れた視座を勉強によって磨き続ける、その飽くなき努力こそが表現者の核心であると今は思っています。


もちろん本来であれば、演劇を始める時点で既に己の視座を持っていた方が良いでしょう。
視座を持っているが故に、世の中への表現欲が生まれ、それが演劇活動の動機付けになるのですから。
しかし(以前にも書いたように)私自身も演劇へ進んだキッカケは、「好きだから、楽しいから」でした。
それでも、そこから勉強を積み重ねることで、自分なりの視座へ到達することができました。やはり勉強は大切です。


世の中のことを学び、『表現とは何か?』を徹底的に考え抜き、表現者としての視座を獲得した後も、その視座に磨きをかけるために勉強を続ける。
常に己を反省し、自身の視座が機能不全を起こしていないかを検証し続けていく。
そのプロセスにこそ、私は表現者としてのプライドと幸せを感じます。


その点、視座がなくても、勉強をしなくても活動を継続できるという“弱点”が小劇界にはあるように思います。
たまたま既存の劇団を観て、「面白い。やってみたい」という感覚のまま、演劇を続けている人が本当に多いように感じます。

前述の通り、その“入り方”を否定するつもりはありませんが、そこから次なる層へと飛躍するためにも、やはり勉強は大切。

そして、勉強を継続していくための鍵は、誠実さや謙虚さの中にこそあるのだと思います。
常に誠実さを忘れずに、私自身これからも永遠に生きるつもりで学び続けたいと思います。

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