では、その使い方ですが『直接的な使い方』と『間接的な使い方』があります。『怒鳴りつける』とか『説教する』といったアクション動詞は、そのまま演技に転用できます。
『圧力をかける』や『優位に立つ』などは解釈に広がりがあります。そういったものは、そのアクション動詞をダイレクトに使うよりも、『行為の意図』として再設定し、そこからさらに他のアクション動詞を導き出すことも可能です。例えば『脅す』『いじめる』『大声でなじる』『馬鹿にする』等々。
アクション動詞は表現を変えるため、演出家のイメージを具現化するためのスパイス位に考えています。他動詞というのは英語だと分かりやすいのだと思いますが、日本語だとしっくりこない部分もあります。あまり難く考えずに動詞ならいいかな、くらいの感覚で使えば良いと私は考えています。
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【座付き作家からの回答】
アクション動詞といえば、ジュディス・ウェストンさんやステラ・アドラーさんを思い浮かべる方が多いと推測しますが、理想現実では諸先輩方が推奨する使い方よりも、もう少しシンプルなアプローチを探究しています。
一緒に稽古している人間として断言しますが、『アクション動詞』は小松Pの得意分野。今後、その腕をさらに磨いて、“アクション動詞師範”を目指してもらいたいです。
?目的……そのシーンでやりたいこと、やろうとしていること。
?意図……その目的を採用した理由。
?焦点……その場面で一番気にかけている対象、フォーカス。
と、3つの視点で考えると整理しやすくなります。
例えば、通勤に使う自転車の鍵を探すというシーンであれば、目的は鍵を探す、自転車に乗る、会社に行く、給料をもらうため……と考えればどんどん流動してしまうので、目的と一緒に、意図と焦点も考えると整理しやすいでしょう。それでも目的・意図・焦点は解析する人によって多少の差異が出てきます。
目的 自転車の鍵を見つけること
意図 会社に行くため
焦点 上司との関係
目的 会社に行くこと
意図 会議に遅刻しないため
焦点 時間
目的 家を出発すること
意図 会社に行くため
焦点 自転車の鍵
どれが正解というわけではありませんがプランを出して役者と演出家でよく話し合っておきズレを少なくしておくことが大事です。
目的探しは他のキャラクターを巻き込むと良いと言われています。共演者を目的の対象にした方が、リレーショナルコンフリクトがもっとも分かり易く演じやすいんだそうです。共演者を巻き込んだ目的を考えること自体が私にとっては障害、葛藤ですけど。 さらに言えば、共演者を巻き込み、よりハードルの高い目的の方がシーンをドラマティックにすると言われています。
同僚に迷惑をかけない<同僚を安心さえる<同僚を喜ばせる……などでしょうか、 目的探しが苦手なので、例えがうまくなくてすみません。目的は1シーン1目的くらいを目安に、キャラクターの目的・意図・焦点をしっかり把握して実演に挑む準備をしておくことが大事、というところです。
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【座付き作家のコメント】
詳細な説明、ありがとうございます。大変わかりやすかったです。
一見単純な概念でありながら、『目的・意図・焦点』はなかなかに奥が深く、かつ実践的なテクニックです。これからも積極的に研究を重ね、100%自分のものにして頂きたいです。
ビートという用語について説明して下さい。
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【小松愛の回答】
ビートとは、シーンを構成するひとつひとつの要素のことです。ビートが積み重なることで、ひとつの場面が完成します。音楽で言えば、シーンをAメロ、Bメロとするなら、ビートは1小節ってところでしょうか。
ビートの変わり目をどこにするかを厳密に考えるには、テクニックが必要ですが、話題や行動が変わるところくらいの感覚で私は考えています。難しく考えずにシーンをビートに分けることでドラマの流れをしっかり把握できれば良いと思います。
その場面で何が起こっているのか、どんな変化(移行)が起きているかを客観的に把握するために、分割したビートにサブタイトルをつけてみるのも有効です。役者と演出家の間でイメージのズレも少なくすることができます。
ちなみに脚本家はシナリオ執筆の準備段階で箱書きという構成表を作るそうです。シーンをビートに割るのは「シナリオを箱書きに戻す作業」といえるのかもしれません。基本的にはシナリオの段階で移行の整合性は保たれているはずですが、ビートに分割したことで理解できないことや、移行の整合性が取れていないことがわかることもあります。そういう時こそ、そのシーンをどうするのか演出家とよく話し合い、場合によっては演出家が書き直しを要請する場合もあるかもしれません。
ビートの分割はあくまでシーンを理解するために行う作業です。役者がそのまま演技プランに反映させる必要はありません。ビートを意識しすぎると、全体の流れがなくなり、ぶつ切れな演技になってしまいがちです。シナリオをビートに分解しても、最後にはまたシナリオに戻して演技では移行を表現することに注意する必要があります。
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【座付き作家からのコメント】
脚本をビートに割る作業は本質的に演出家の裁量ですが、そうであったとしても、役者さんがビートを意識することは実務的に有効だと私は考えています。
小松Pには、“ビートをこなせる役者”に成長してもらいたいです。
【座付き作家からの質問】
「そのシーンの出来事は何か?そこで何が起こっているのか?」をきちんと伝えられてこその役者であり演出家です。そのためにはシナリオ解析の段階で、シーンの出来事をしっかりと把握しておきたいところ。
今、小松Pが知っている範囲で構いません。出来事の解析法を説明してください。
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【小松愛の回答】
シナリオを読めば判断できる情報である見た目の出来事と、読む人の解釈によって変わるドラマ的な出来事に分けて考えるようにしています。
見た目の出来事は誰が読んでも、大体同じようにピックアップできる情報です。順応した出来事とか文字通りの出来事といわれることもあるようです。
ドラマ的出来事は、そのシーンに内在しているドラマ的な要素をピックアップします。作者がそのシーンを描いた理由、そのシーンでお客さんに見せたいものともいえます。
例えば、野球の試合のシーンがあったとします。どこチームの試合だとか得点数や状況は誰が読んでも同じように判断できる情報、見た目の出来事です。
ドラマ的出来事は基本的には主人公を中心に置くことになります。相手に勝負を挑むだとか、自分自身と戦うとか、チームメイトに感謝するだとか、どんなシーンかは読む人の解釈によって変わります。
ドラマ的出来事の解釈が演出家と役者の間でズレていると、実演において何度やってもOKが出ない状態に陥ってしまうことがあります。大事なのはドラマ的出来事の解釈をしっかり演出家と共有させることですが、ドラマ的出来事にリアリティーを持たせるのは見た目の出来事です。
見た目の出来事がストライクを取ることであれば、フォームやボールのスピードはどうであってもストライクさえ取れればシナリオに則っていることにはなります。しかしドラマ的出来事が相手に勝負を挑むであれば、やはり道具の扱い方、投げ方、ボールのスピードなどディテールにこだわらなければ嘘っぽくなってしまいす。
ドラマ的出来事にリアリティーを持たせるためには、見た目の出来事も把握しておかなくてはいけません。スポーツや楽器の扱いがあるような職業的特徴が強い場合は、実務面でどれくらいの練習時間が必要か、できるできないを見極めスタントマンを使うといった話し合いをしておくことも大事です。
いろいろな解析法であるとは思いますが、解釈のズレを減らすため、出来事を見た目の出来事、ドラマ的出来事に分けて考えています。
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【座付き作家からのコメント】
ドラマ的出来事とは、すなわちそのシーンの意図であり、ドラマをドラマたらしめている要素です。
しかし、役者がそれをダイレクトに表現し過ぎると、場面全体がどうしても『説明っぽく』なってしまいます。時にはむしろ『見た目の出来事』に集中した方が、観客の心にストレートに響く場面が創れたりします。
演技っていうのは、本当に奥が深いですね。
役者さんの中にも、キャラクターのバックストーリーを重視する方とそうでない方がいます。『登場人物の履歴書を作成することは、キャラクター創りに有効か否か?』という論争を、理想現実の稽古場でも行ったことがありますよね。
小松愛の考える『バックストーリー論』を教えてください。
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【小松愛の回答】
まず、理想現実でのバックストーリーの定義ですが、物語が始まる前の時間軸というものに限定しています。
浦島太郎であれば、亀を助ける前の出来事や浦島太郎の普段の生活を探ることでしょうか。その人物を理解する上で、キャラクターの過去を探ることは、重要なヒントになることもあります。自分には理解できない人物と出会った時に、その人の過去を探ることで何かがわかることもあるかもしれません。
そういったことを重要視して履歴書を書くというキャラクター創りがあるようです。私としては、キャラクターを解釈するための一つの方法くらいに考えています。それだけでキャラクター創り終わるわけではありませんし、実際、私は履歴書を書くということはしません。
もちろん、脚本上で指定されたバックストーリーや、脚本から創造できるバックストーリーはきちんと把握しておくことは必要です。ただ、脚本には登場しない過去を役者が想像する(アクターズシークレット)は、やりすぎると演出家のイメージとずれてしまう可能性があります。役者は自分の役を格好良く見せたいものですからね。
過去の出来事を並べるよりも、重要なのは、「過去の出来事を今現在のキャラクター自身がどう認識しているのか?」だと思います。
確かに過去の出来事によって、そのキャラクターの価値観や感情が形成されます。ただ、役者が表現しなくてはいけないのは、キャラクターごとの価値観や感情によって変化する「物事への関わり方やリアクション」です。
私自身は表現を変えるためのツール、調整装置としてバックストーリーを使うことはありますが、履歴書を書いたり過去を想像したりすることで、何かが変わるかというと、少し疑問です。
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【座付き作家からのコメント】
極端なまでにバックストーリーを重視する役者さんもいますが、小松Pはその点冷静な立ち位置をキープしている感じですね。なるほど、よくわかりました。
ちなみに、演出家の中には、「そのシーンが始まる直前、登場人物は何をしていたか?」ということをバックストーリーと呼ぶ方もいますが、理想現実では、その手のバックストーリーを一括して『オフ・カメラ・ビート』(カメラが回っていないビート)と呼ぶようにしています。
バックストーリーのみならず、このオフ・カメラ・ビートについても、シナリオ解析の段階で出せるだけのアイデアを出しておきたいところですね。
フィジカルライフという用語について説明してください。
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【小松愛の回答】
直訳すると「物質的な人生」になるでしょうか、スポーツジムで肉体を鍛えるという意味でも使われることがあるようです。
シナリオ解析では「その人の部屋を見れば、その人がわかる」というように、小道具や衣装、それらをどう扱うか、キャラクターにとっての対象物全般をフィジカルライフと言います。
上着ひとつとっても、キャラクターによって違いますし、上着の着方でも表現が変わります。理想現実では、フィジカルライフは小道具や衣装の使い方、生かし方として捕らえています。
キャラクターによって、衣装や小道具の使い方を変えるというのは、役者が普段やっていることでもありますが、脚本に書かれている小道具や衣装を書き出し、その使い方をひとつずつ検討していきます。
基本的にフィジカルライフは演出家主導で決めることですが、役者も積極的に考えることで小道具の持つ意味をしっかり把握することができます。ストーリーの中で、小道具がキーワードや伏線として使われることがありますから、それを理解した上で、演技プランを考えられるように、気をつけたいです。
また、楽器など扱いが難しいフィジカルライフが登場する場合、前もって練習するとか、代役を立てるなど、役者と演出家で、よく相談しておく必要があります。
脚本に指定がない場合は、こういう小道具を使いたいとか、こんな衣装はどうか、と積極的に提案するのは、役者にとって特に楽しい作業ではないかなと思います。
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【座付き作家からのコメント】
脚本からフィジカルライフを想像する作業は、役者や演出家にとって楽しいイベントだと思います。脚本家にとっては、それが喜びになったりジレンマになったりもしますが、まぁ、その件は置いておきましょう。
『内面を探ることがキャラクター創りの本筋』と解するメソッドも多いですが、フィジカルライフから役作りするのもなかなか面白いです。(マニアの方は『アメリカ対イギリス』『リーvsステラ論争』を想起されるでしょうが、もう少し広い意味で捉えて頂けたら幸いです)
フィジカルライフを“遊べる”女優に、小松Pにはなってもらいたいです。
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【小松愛の回答】
キャラクターの解析をするときに、キャラクターの背骨、3Dキャラクターというカテゴリーでの考え方があります。
まずは背骨についてご説明します。
理想現実では、スルーラインと言うことが多いのですが、キャラクターが自分の人生において最も求めていることだとか、キャラクターのコンセプトという意味で使っています。
背骨というのは、基本的に物語を通してずっと変わらない、キャラクターの信念や哲学、コンセプトだとイメージしてもらえればよいかと思います。
同じキャラクターなのに、シーンごとにキャラクターがコロコロ変わってしまうと、見ている側は違和感を覚えてしまうと思います。演じる側としても、キャラクターに整合性や統一感を持たせる必要があります。背骨を決めるのは、こうしたブレをなくそうという技法のひとつです。
例えば傘地蔵のお爺さんの背骨を考えると、
愛する人を幸せにすること
自分が幸せになること
目の前の問題から背を向けること
貧乏な自分を許してもらうこと
今できることを精一杯やること
と、いうように、同じ物語でもいくつか候補が挙げられます。
背骨を何にするかは解釈なので、人によってマチマチです。最終的にどの背骨を使うかは、演出家に決める権限があるかと思いますが、同じ背骨でも、キャラクターが一貫して持っている信念や哲学、アイデンティティという意味で使われたり、超課題、超目標、目指すべきゴール、キャラクターのコンセプトという意味で使われたり、色々な意味で使われることがあります。
人によって背骨という言葉の指す内容が違うことがあるので演出家が意図する背骨をしっかり理解することが必要です。
もうひとつの、3Dキャラクターは、より立体的なキャラクターを創るための方法です。
理想現実では、
理性的側面・・・思考、哲学、世界観、等等(頭の中で考えること)
感性的側面・・・感情、気質、性格、等等(心の中の状態、気分)
行動的側面・・・行動の種類、アクション動詞、等等(見た目の結果)
このように区分を3つに分けて考えます。
ちゃんとしたシナリオライターであれば、この3Dキャラクターをしっかり考えながらシナリオを練っていますし、演出家もきちんとそれを拾い出し、3Dキャラクターを考えているものです。
ただ、これはとっても難しい作業なので、役者の立場であれば前回の2方向からのアプローチで充分だと思います。
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【座付き作家のコメント】
『背骨』という用語は演技界の定番でありながら、人によって使い方が違うので注意が必要ですね。
3Dキャラクターは基本的に脚本家のテクニックなので、役者さんがそこまで勉強する必要はないでしょう。でも、勉強して損はないです。
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そして簡単に目的が達成されてしまえば物語はすぐに終わってしまいます。基本的には、アクト1で目的がセットアップされ、アクト2で目的達成を阻止するような障害が出てきます。数々の障害にぶつかることで主人公は葛藤します。それに対して主人公が新たな行動をとることで、ドラマが動き出すわけです。
役者の仕事は葛藤を表現することと言えるかもしれません。葛藤を的確に表現するためには、役者は主人公が何に苦しんでいるのか?主人公は誰と戦っているのか?という情報を、演出家ときちんと共有することが大事です。葛藤の解釈が演出家の解釈とズレたまま実演に入ると、時間や労力のロスを招いてしまいます。
さらに、シナリオの世界ではリンダ・シガー氏が、葛藤を生み出す対立構造を以下の5つに区分しています。
1.インナーコンフリクト…内的葛藤、主人公の内面での葛藤。真実を告白するか、しないか、など。
2.リレーショナル・コンフリクト…相対的葛藤、対人関係。桃太郎の鬼のように分り易い敵の場合もあれば、親友でライバルといった関係などもあります。
3.ソーシャル・コンフリクト…社会的葛藤、世間の習慣や悪習、体裁など。
4.シチュエーショナル・コンフリクト…状況的葛藤。酸素のない潜水艦の中や、自然災害といった状況事態が葛藤を生み出すもの。
5.コズミック・コンフリクト…絶対的葛藤。神対人間といったようなもの。
コンフリクトは対立構造という意味です。ソーシャル・コンフリクトも、社会のメタファーのようなキャラクターが登場することで、リレーショナル・コンフリクトに落とし込んでいる場合も多いですし、突き詰めれば全ての葛藤はインナーコンフリクトになります。障害が巧みに盛り込まれているのが理想的なシナリオですが、障害のハードルが高すぎても、やりすぎという感じになってしまうので注意が必要ですね。役者の場合は「主人公の目的→障害→葛藤」という関係をしっかり押さえておけばよいと思います。
セントラルクエスチョンについて、詳しく説明してください。
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【小松愛の回答】
観客の興味を物語へ引きつけるために、冒頭で提示される謎のことをセントラルクエスチョンと言います。
恋愛物なら、二人の恋は成就するのか?といった謎がアクト1で提示されます。アクト2では、セントラルクエスチョンに対する回答が良い結果なのか、悪い結果なのかの揺らぎがあり、どうなるのかハラハラさせられるのが、セオリーです。最終的にアクト3で、成就する!とか、しない!とか、答えが示されます。セントラルクエスチョンはアクト2での揺らぎを出すための前提とも言えます。
セントラルクエスチョンを何にするかで、物語の描き方や演出の仕方もだいぶ変わってきます。たとえば、シンデレラのセントラルクエスチョンを「王子と結婚する」に設定すると、クライマックスを誘発する出来事にあたるプロットポイント?は、「王子が靴を拾う」になります。
セントラルクエスチョンを「12時までに帰ってくる」と解釈すると、プロットポイント?は、「12時の鐘の音が鳴る」になり、王子との結婚までの残りの部分は少し長めのレゾリューションになるわけですそれぞれ、クライマックスをドラマチックに見せるために、前半の演出も変わってきます。
セントラルクエスチョンは絶対に入れなくてはいけないわけではありませんが、これが提示されないと、「結局、私は何を見ればいいの?」と疑問が沸いてきます。私にとって、その代表が浦島太郎です。亀を助けて竜宮城へ連れて行かれ、帰ってきたらものすごい時間が経っていた、さらに玉手箱を開けたらお爺さんになっちゃったって・・・。
人助けしても礼を受けるべからずとか、お姫様の嫉妬とか、解釈することもできなくありませんが、なんだかスッキリしません。決して浦島太郎が嫌いなわけではありませんが・・・浦島太郎って何が言いたいの?と、ずっと疑問でした。
セントラルクエスチョンはYESかNOで答えられるのが一般的なのですが、この浦島太郎に無理矢理当てはめるとすれば、竜宮城はどんな所か?とか、浦島太郎の運命は?になりますかね。でも、結局、セントラルクエスチョンが明確にない物語だから、私からすると「何を見ればいいのか分からない物語」なんだと思います。
物語に興味を持たせるための工夫、セントラルクエスチョンはその中心になるものなので、これがしっかりしてないと、やっぱりシナリオとしては、退屈になってしまうと思います。
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【座付き作家からのコメント】
“とっつきやすさ”で言えば、セントラルクエスチョンが明確な方が確かに親切だと思います。多くのハリウッド映画が物語の冒頭(=第一幕)にセントラルクエスチョンを配置しているのも、『ある程度のわかりやすさ』を担保するための工夫でしょうから。
そういえば小松Pも、理想現実の創作現場では常に『わかりやすさ』を重視していますよね。セントラルクエスチョンという概念は覚えておいて損はないです。
すべてのシナリオが“スリーアクト”を意識して書かれているわけではありませんが、あえて三幕構成という雛形を使って考察してみると、思っていた以上に物語への理解度が深まります。「三幕構成、恐るべし!」です。
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また、起承転結は漢詩の構成がルーツです。起は語ろうと思った理由を述べ、承はモチーフを受けて詳しく説明、転では違う話題を、結は全部を含めてのまとめを語るといった構成で、文章を書くときには起承転結を意識して書きなさいと、よく言われたものです。映画でいう起承転結は、三幕構成と近いのかもしれませんが、起承転結は文章をわかり易くまとめるための技法で、三幕構成は物語をわかり易く、かつドラマティックに魅せるための技法と考えています。
起承転結は漢詩が元になっているので4つの区分がそれぞれ同じ分量ですが、三幕構成の第一幕(起承転結の起)は、かなり短いです。第一幕をセットアップ、第二幕をディベロップメント、第三幕をクライマックス&レゾリューションと言います。三幕構成はギリシャ時代から存在する物語の構成で、アリストテレスが開祖と言われているようですが・・・人々が「こんなことがあったよ」と、語る話を分析、分類してみると三幕に分けられるということをアリストテレスが語ったそうです。ハリウッド映画
の多くは三幕構成で作られているので、意外と慣れ親しんでいるものだと思います。
シナリオ解析では、この三幕構成について勉強していく予定です。
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【座付き作家のコメント】
実は私、脚本を書き始めた当初は『起承転結』にて構成を組んでいました。……で、その後紆余曲折を経て、今ではすっかり『三幕構成』派です。
確かに、『起承転結』と『三幕構成』には相違点が少なからずあると思います。ただ、互換性もそれなりに高いので、余裕があれば両方とも学んでおきたいですね。
私、座付き作家の猪本は、便宜上、作品のテーマをいくつかのカテゴリーにわけています。
どのようなカテゴリーがあったか、覚えていますか?
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【小松愛の回答】
復習をしながら・・・まずはテーマ自体は2つに分かれます。
抽象的なテーマと具体的なテーマです。
前者は、「愛情」とか「実存」など括りが大きく、言ってしまえばどんな物語にでも当てあまるもの。
後者は、その物語だからこそ当てはまるもの、その物語特有のテーマと言えるものです。
「Deep Summer TREASURE」なら・・・
トラブルに巻き込まれて冒険に出ることになった主人公のジムだが、家族や仲間を守るため主体的に行動するようになる。ジムが成長する姿を見せることで、人生は決断の連続であり、自分が何者であるかを決めるのは自分だということをメッセージした物語・・・みたいな感じでしょうか。
どんなテーマも抽象的にも具体的にも語ることができますが、シナリオ解析では、具体的なテーマを主に考えていくことになります。具体的なテーマをさらにカテゴリーに分けると・・・
?主張型
主張したことが分かりやすく提示されている。「生きるとは何か?生きるとは主体的に決断を下すことだ!」みたいに、答えも提示している。
?環境提示・問題提起型
作者側の意図や示唆を含んだ環境や状況を物語で提示することで、観ている人に問題提起を投げかけるもの。「こういう人生をどう思いますか?生きるとは何でしょうね?」と問いかける、シナリオでは最も多い形。答えまでは提示しないけど、作者の答えも見え隠れするものが多い。
?環境提示・投げっ放し型
環境は提示するけど、作者の意図が書かれていないもの。どう解釈するかは観客次第。
?抽象概念型
最初に分けた抽象的・具体的テーマの、抽象的テーマしかないもの。抽象的なテーマ「時」とか「人間」など、なんとなく分かるような、分からないような・・・不条理劇などに多い。
?モチーフ型
作者がその物語を書くキッカケがそのまま作品にのテーマとして語られるようなもの。この人物・事件を忠実に映像化すること自体がテーマというようなタイプ。
?その他
テーマない、なんとなく書いちゃった。
・・・と、なります。あくまで便宜上、分類しただけであって、カテゴライズすることが大事なわけではありません。モチーフ型でありながら、主張型でもあるという作品もありますし、臨機応変に使いこなせば良いものです。
ただ、私は観ていて何が言いたいのか結局分からない作品や、風景をそのまま切り取ったという作品は正直、好きじゃありません。自分の役に立ったり、励まされたりする作品が好きなので、観るにしても演じるにしても、主張型や問題提起型が好きです。
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【座付き作家からのコメント】
私、猪本が物語のテーマをわざわざカテゴライズする理由は、役者と演出家のディスカッションを円滑に進めたいがためです。
このような方法を用いなくてもディスカッションがスムーズに進むのであれば、それはもうそちらの方が素敵だと思います。
この分類法を杓子定規に取り入れる必要はまったくありません。御自身の使いやすいようにカスタマイズして、小松P流に使ってもらえれば幸いです。
主人公が直接的にテーマを担う場合と、間接的に担う場合があるので、何をメッセージしている作品なのかを探し出すのが難しい場合もあります。
例えば、世界平和のために尽力する主人公であれば、平和の大切さを訴えることがテーマになりえます。
それから、戦争によって不幸な境遇に陥る主人公を描くことで、間接的に平和の大切さを訴える作品もあります。
主人公の主張とテーマが一致している作品は、お子様向けとか、分かり易過ぎるなんて言われることもありますが、私は直接的な作品のほうが好みです。
ただ、結局のところ、主人公の言動というのは、他のキャラクターの言動も絡んでくるので、主人公だけに注目するというよりは、サブキャラクターの言動も併せてみていくことになります。
傘地蔵を例に考えると、キャラクターの言動は、
おじいさんの言動・・・お地蔵さんに売り物の傘や、自分の手ぬぐいをかぶせてあげる。
おばあさんの言動・・・おじいさんの行動をほめる。
お地蔵さんの言動・・・年越しに必要な品々を置いていく。
キャラクターの言動から、思いやりの大切さがテーマだと考えたとします。
さらに、売り物の傘をお地蔵さんにあげて、おばあさんが怒ってしまったら、とか、お地蔵様が傘はいらないと返しにきたら・・・と、逆のことを考えてみます。そうすると、自分が良いと思ったことと、相手が喜ぶことは異なる、なんてテーマが考えられますから、言動を逆に考えてみるのも、テーマ探しのコツです。
それから、おじいさんとおばあさんが、無事にお正月を迎えられるのか、というのが、話の中心になるわけですが、おじいさんがお地蔵さんに傘をあげたおかげで、無事にお正月を迎えられることになったので、主人公の言動が、話の展開にどう左右したのか、というのも、考えるときののコツじゃないかと思います。
・・・と、頭では分かっていてもテーマを言葉にして説明するのは、やっぱり難しく、私はいつも苦戦しています。感受性の豊かな人なら、考えなくても様々なテーマに気づけるかもしれませんが、私の場合は、読んでも分からないことが多いので、とにかく分解して1つずつ探していくしかないと思っています。
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【座付き作家からのコメント】
なるほど、テーマ探しのコツは『主人公の言動(台詞や行動)の裏側に見えるものを探す』ということですね。
ただし、それはあくまでコツのひとつであって、他にも多種多様なアプローチがありうるでしょう。今後、さらなる勉強を積み重ね、様々な“テーマ探し法”を模索してみてください。
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【小松愛の回答】
テーマなんて考えるだけ無駄という主張もあります。確かに、観客の感受性に強制的なバイアスを掛ける気はありませんし、観客は感じるままに作品を受け止めれば良いと思っています。
観客が主体的に感じとったメッセージが、作り手の考えたテーマとリンクすれば嬉しく思いますが。
ただ、表現をする側は、自分がどういうメッセージを発しているのかをしっかり自覚するべきだと思います。私は表現芸術を特殊なものに崇め奉るつもりはありませんし、あくまで「社会の中の演劇」「社会の中の映画」であるべきだと考えています。そこには当然、社会的な責任が付随してきます。何を発信しているのか無自覚な俳優は社会的責任を放棄していると思うのです。
極論と言われるかもしれませんが、私自身は戦争を賛美するような作品には出演したくありませんし、自分自身が作品に対して責任を持つためにも、テーマは本当に大事だと思っています。
実際の演技作りにおいてですが、脚本の解釈は人それぞれなので、もしテーマの解釈が演出家とズレていたら、その後の細かな演技プランにおいてもズレが生じてしまう可能性があります。
例えば、童話「シンデレラ」のメインテーマを「諦めなければ、夢を手に入れることはできる」と解釈するのと、「神様が願いを叶えてくれるから、焦らなくてもいいんだよ」と解釈するのでは、主人公が能動的な人なのか、受動的な人なのか変わってきます。
「貧乏でも心の豊かさが大事」とすれば道徳的な印象を与えるような演技プランを出しますし、「世の中を渡っていくには、お金が大事」と解釈するなら、ガラスの靴をわざと、シンデレラが置いていくなど、シニカルな演技プランを採用することになるかもしれません。
メインテーマの解釈が違えば、キャラクター性や演技プランに違いが出てきて、思わぬトラブルに発展したり、ズレを修正するのに時間がかかってしまうもあるので、テーマという大きな括りで、まずは演出家とコンセンサスを作る必要があると思います。
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【座付き作家からのコメント】
テーマ論を観客視点と表現者視点に区別し、それぞれの違いを指し示した部分に大変興味をひかれました。
確かに、お客様がその作品のテーマをどう受け止めるかは全くの白紙であり、完全なる自由。そのことを前提とした上で、なおかつ表現者として「作品のテーマに責任を持ちたい」という小松Pの姿勢は素晴らしいと思います。私も見習いたいです。
あと、『シンデレラ』の例え話も、わかりやすくて面白かったです。
1、テーマ探し。
2、構成の把握。
3、キャラクター解析。
4、各場面の解析。
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【小松愛の回答】
まず、テーマ主義者である私にとって、テーマに共感できるかは、出演するか否かを決める大事なポイントになります。演出家の方向性を把握するためにも、テーマが何なのか大きな意味でのコンセプトを掴んでおくことも大切です。
次に、構成の把握ですが、シナリオは構成の集合体ですから脚本家が辿った計算を役者も知っておくことで、ストーリラインを的確に捉えることができます。必ずしも3幕構成で書かれたシナリオばかりとは限りませんが、何が、どうして、どうなったか、という流れを演出家と詰めておくことで、解釈のズレを減らすことになります。
この構成の大枠を掴む過程で、キャラクターの役割やコンセプトが分かってきます。シナリオから、自分が演じる役がどういう人物なのかを拾い上げていきます。演出家のイメージをより正確に理解するためにも重要ですし、自分の役についてアイディアを演出家に提案するのもヒトツの醍醐味かもしれません。
各場面の解析は、シーンに関わるものの意味をきちんと理解しておく作業です。演出家のイメージを的確に理解するため、現場で急な変更があっても矛盾が出ないようにするため、場面の意味や意図を自分でも解析しておきます。
絶対に1から4の順番じゃなきゃいけない訳ではありませんが、私がこれから勉強するシナリオ解析では、このような流れに沿って進めていきます。
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【座付き作家からのコメント】
論理的な説明をありがとうございます。
演出家や脚本家の場合、これとは違う手順を踏むこともままありますが、役者にとっては使い勝手の良いフローチャートだと思います。
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【小松愛の回答】
演出家と対等に話ができる状態になっておくためです。
確かに基本的には解析は演出家がしてくるものですが、演出家から作品解釈の説明を受けて、問題がなければOKというのと、脚本を読み込んで自分自身の解釈をまとめてから、説明を受けるのでは理解度も変わってきます。
自分の作品解釈を出した上で、演出家の作品解釈とズレていないか確認したり、ズレを埋めたり、疑問点を率直に話し合っておいた方が、後のトラブルも防げます。演出家と解釈をしっかり合わせておけば、何を表現するかということで悩む必要はなくなります。あとは、どう表現するかを考えたり、相談したりすればいいわけです。
役者は、作品と自分の役について、自分の役と他の役の関係性について考えてくれば良いわけですが、演出家は、全部の役の解析、稽古場をどう回していくかや、役者以外の分野での演出効果についても考えなければいけません(・・・本当に大変ですね。)
極端な例ですが、演出家は「友情」をテーマに全体のプランを考えて作っていたのに、一人の役者だけがテーマは「恋愛」だと勘違いしていたら、違和感が出てしまいます。
シナリオ解析を役者がしていなくても問題がなかったということはあるとは思いますが、脚本を一読しただけでは、なかなか気が付かないこともたくさんあります。私なんかは、まだまだ読み取れていないことの方が多いくらいです。
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【座付き作家からのコメント】
演出家のイメージをより深く理解するため、さらには演技プランについて演出家と効率良く話し合えるようにするために小松Pはシナリオ解析に挑むわけですね。なるほど、よくわかりました。準備できることはすべてやっておく──、小松愛のそういう積極的な姿勢を私も見習いたいと思います。
映画用語ということもあり、“シナリオ解析”という言葉を演劇界で耳にする機会はさほど多くありません。当ブログの読者の中にも、「シナリオ解析? 聞いたことないなぁ」と首を傾げている方々が少なからずいらっしゃると思います。
そこで、まずはシナリオ解析の概論を教えて下さい。一体どういうもので、何のためにあるのか、小松愛なりの視点で語って頂ければと思います。
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【小松愛の回答】
映画用語という話がありましたが、ハリウッドでは、まずはストーリアナリストという職業の人がシナリオを読み、シナリオ解析をして商品としての価値を評価分析し企画書にするんだそうです。プロデューサーは企画書を読んで、面白いとか、ヒットすると思ったシナリオだけに目を通し、映画化を検討するわけです。プロデューサーが大量に持ち込まれるシナリオ全てを読むのは難しいからだそうです。
始まりはハリウッドのストーリアナリストですが、他にも演出家がどういう風に演出していくか考えるための解析もあれば、シナリオライターがリライトするために使う解析もあって、誰が何のために使うかによって色々なシナリオ解析方法があります。
他の解析と共通するところもありますけど、私が今、勉強しているのは、役者が使うためのシナリオ解析です。この解析では、脚本をどう解釈するかということを考えていきます。
解釈は読む人によって変わるものなので、化学的に成分を調べて結果を出すのとは違うのが難しいところかもしれません。ただ、イメージとしては脚本という長い文章を敢えて、細かく分解して調べていくような、地道な作業だと思います。調べる項目も色々あります。
演出家の解釈とズレがないかを確認するためにも、解析をして、まずは自分の解釈をまとめておく必要があります。ズレがないか確認せずに、後になって「こんな作品だったとは!?」と、思わぬ事態に陥ることのないよう、自分の身を守るためにも必要な作業だと思っています。
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【座付き作家からのコメント】
解析する人の立場によって、シナリオ解析の方法論には様々な差異が生じます。その違いをきちんと理解した上で、小松愛独自の解析メソッドを構築してもらいたいです。
理想現実を旗揚げした小松愛は、プロデューサーとして創作の最高決定権を持つようになり、脚本創りにも積極的に参加するようになります。
そして、座付き作家である猪本のナビゲートを受けながら、『DeepSummerTreasure』 『横濱荘狂想曲』『高き霧の壁』と、3つの脚本を世に送り出しました。理想現実で脚本会議に参加するようになったことで、脚本に対する印象や立ち位置に何か変化はありましたか?
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【小松愛の回答】
とても大きな変化がありました。
表現したいことがあるから、そのテーマを折り込んだ脚本を作り、公演を打つという基本的なスタンスをしっかりと持つことが出来ました。
私が関わってきたのは、組織を存続させるために公演を打っている団体で、脚本が書きあがらないのは、本当に表現したいことなんてないからだったのだと思います。
理想現実を旗揚げし、本当の意味で表現と向き合うことができました。
理想現実を始める前に比べたら、脚本を「読み解く」という言い方が、しっくりくるかかもしれません。
きちんと練られた脚本は、緻密な計算から成り立っていますが、そうじゃない脚本も世の中には沢山あるなんてことも分かってきます。
脚本を読み解き、演技プランを考え演じる、そういった作業が役者の仕事ですから、何においても脚本が土台となってきます。
脚本の構成を勉強すると(まだまだ勉強中ですが)、脚本が最後までない状態で練習をすることの無意味さを痛感しました。ただ読んで、感覚で演じることが非常に表面的でしかないこともよく分かりました。
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【座付き作家からの返信】
物語の全体像(構造)を計算に入れた上で、なおかつ前説や先読みにならないような演技をシーン毎に見せてもらえたら、脚本担当の私としては大変嬉しいです。ある意味、座付き作家冥利に尽きます。
脚本を読み解く技術をどんどん勉強し、最終的に小松Pには“シナリオ解析マスター”の称号を手に入れてもらいたいです。
(前回の記事にあったように)高校自体は作・演出にも手を染めていた小松愛。
しかし大学に進んでからは、役者としてのみ演劇に関わるようになりました。
役者一本になったことで、脚本との付き合い方も変わりましたか? その頃は、どんな風に脚本と格闘していましたか?
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【小松愛の回答】
数えてみたら大学時代と卒業後の2年の計6年間で、8つの団体で23作品に出演していました。
ただ、今のように脚本を使って演技プランを考えるということはせず、というか知らず・・・。台詞を覚え、動きを決めるという感覚的な表現をしていました。なので、やっぱり中学・高校演劇部の延長でしかなかったと思います。
練習と本番で、それなりに忙しい日々を過ごし、自分は好きなことをやっている、何かを表現しているんだという錯覚に陥っていました。まさにモラトリアム。
そんな未熟者だった私は、主に人間関係や感覚で出演先を決めていて、稽古が始まっても脚本が完成していないことが殆どでした。
私が関わってきた劇団やユニットは、主宰が脚本と演出を兼ねているところばかりで、作・演出が脚本執筆のため稽古場に来ないことも多々ありました。そんな状態でも、作・演出が一生懸命書いているのだから、良い脚本が出来るはず、それを信じて今ある脚本部分だけでも、しっかり練習しようと考えていました。少しずつ脚本が配られていき、突貫工事のように台詞を覚え、動きをつけ、なんとか本番までに間に合わせるような状態でした。
質問にそのまま答えるなら、「脚本がない状態と格闘していた」というところでしょうか。既成の脚本を上演していた中学・高校時代に比べたら脚本との付き合い方は後退していると言ってもいいですね。再演を除き、稽古開始前に脚本を用意していた団体も1つありましたが、結局、表現について真剣に考えたり、演技の勉強をしたりしていなかったので、今のように有効に脚本を使うことはありませんでした。
この時代については、本当に反省しかありません・・・自分にとっての暗黒時代です。表現者としてまだ目覚めていない盲目状態で「脚本を読めてなかった」なんて言い方もできるかも知れません。
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【座付き作家からのコメント】
一読し、「反省文、提出!」みたいな勢いを感じました。
右も左もわからないまま小劇界に飛び込み、ただただ目の前のことに一生懸命だった当時の小松愛を非難する気は毛頭ありません。
大切なのは、過去の反省から学んだことを、いかにして今後の成長へ繋げていくかということ。期待しています。
小松愛が役者業に踏み出したのは、中学時代の演劇部と聞いています。その頃は図書館にあった戯曲を演じていたとか。
また、高校演劇部時代は、自ら脚本を書いて演出もされていたはずです。
中学〜高校時代の小松愛にとって、脚本はどのようなものでしたか?
その頃は脚本とどういう風に付き合っていましたか?
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【小松愛の回答】
中学生時代は、地区大会や文化祭などで上演する脚本を、学校や市の図書館にある学生用の脚本集などから脚本を選んで公演をしていました。みんなで脚本を探してきて読み比べて、多数決で上演する作品を決めていたように思います。中学の時に読んでいたのは童話や昔話なんかも入っている古い本が多かったですね。
その脚本をどのように使っていたかというと、自分や他の人の台詞を覚えて、最初に読んだ時の印象をそのまま感覚で演じていたというレベルでしかありません。演出というのもなく、みんなでワイワイやっていました。
高校の最初の頃は、当時やっていた劇団の脚本や、中学に比べると少し新しい作品が載っている本から選ぶことが多かったように思います。使う図書館や本屋さんが広がったこと、演劇部の先輩の好みなんだと思います。
先輩が演出をやっていましたが、結局はみんなで作っていたような気がします。
自分が上級生になると創作で脚本を書いてみたりもしましたが、脚本の勉強をしたわけでもありませんし、今思うと本当にお遊びレベルです。高校時代は演劇を色々観にいっていましたから、好きな劇団の影響を受けていたと思います。
お恥ずかしながら、当時は脚本の読み方や、演出論、演技論などを自分から勉強しようという意識もなく、小道具や照明、舞台セットや衣装も自分たちで作ったり、探したりだったので、そういう作業をみんなで一緒にやることを楽しんでいてる日々を送っていました。
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【座付き作家からのコメント】
そういえば、高校時代に小松Pが書いていた台本を、その当時私も読ませてもらいましたね。独特な雰囲気があって、なかなか興味深かったです。
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「オファーがあった時は、必ず脚本を読んでから出演するか否かを決める」──、役
者・小松愛の変わらぬ主張です。それはつまり、表現者として作品に責任を負おうとす
る決意表明であり、とても誠実な態度だと私は感じています。
では、そんな小松愛が、「こういう作品だったら出演したい」と感じる脚本はどのよう
なものなのでしょうか?
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【小松愛の回答】
私が面白いと感じるのは、テーマがあって共感できる、または新しい価値観を与えてくれる、魅力的なキャラクターがいる、エンターテイメント性が高い、というような要素を含んだ作品です。
社会派でもファンタジーでも、ジャンルに対しての強い拘りはないのですが、こういう要素がきちんと入っている作品に出演できたら素敵です。
テーマやメッセージは要らないという考え方もあるようですが、私にとっては脚本を読んで、何を訴えたい作品なのか、きちんと分かって共感できるかというのが特に大事なことです。私はかなり単純なので、主人公がメッセージを発していて、それを応援したくなるような作品が特に好きみたいです。
なので、難解で何を表現したいのか分からないとか、ストーリーが凡庸、単調、矛盾があるといった脚本には魅力を感じません。出演したくなる脚本という質問からは、少しそれてしまうかもしれませんが、漫画や小説が原作の作品を舞台や映画にする場合は、映像や舞台でこそ表現する意味や価値を持てる作品であってほしいです。
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【座付き作家からのコメント】
なるほど、よくわかりました。
確かなメッセージ性があり、それを物語るキャラクターたちが求心力に溢れていて、一瞬たりとも観る者を飽きさせない脚本──、自分も作家としてそういう作品を目指したいです。
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【小松愛の回答】
脚本は作品が表現するものの根幹に値すると思っています。脚本だけとは言えませんが、脚本が変われば表現するものが大幅に変わってきますから。
そして役者小松愛にとっては、出演を決める際に最も重要な判断材料という価値があります。絶対に面白いから!と言葉だけでオファーされても、どんな内容なのか分からないのに演じることは出来ません。脚本を読ませてもらうに限ります。論より証拠じゃないですけど、テーマに共感できるかを確認したり、どんな作品にするのか脚本を読んだ上で演出家と話し合うためにも、脚本はなくてはなりません。
それから実際に演じる際には、脚本のテーマやストーリーの構成から、シーンの意味やキャラクターの役割を考えて演技プランを作ります。冒頭のシーンを作るためには、そのシーンの台詞やト書きだけがあれば良いわけではありません。他のシーンとの対比や登場人物との関係性を考えなくてはいけませんから、作品づくりにおいて脚本は土台や設計図だと考えています。
あと、つまらない脚本は、どんなに役者が頑張っても面白くすることは出来ないとよく言われますが、本当にそうだと思います。お客さんにウケたとしても、それは役者のスタンドプレー。脚本は作品の善し悪しを決める一番大事なものだと思います。
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【座付き作家からコメント】
表現者として、「どういう物語の、どういう役を演じるのか?」という点に責任を持とうとしている小松Pらしいお返事でした。
「出演できればなんでもいい」みたいな“焦り”を役者さんが抱くこともわからなくはないのですが、観客に対して何かを投げ掛ける立場にある以上、「役者として、自分がどういうメッセージの一翼を担っているのか?」を、常に自覚してもらいたいと私も願っています。そういう意味で、出演を検討する際に、まずは脚本の存在を前提に挙げている小松Pには共感を覚えます。
さらに、座付き作家として言わせてもらえれば、脚本とはまさに構成の魔術です。「冒頭シーンを作るためには、そのシーンの台詞やト書きだけがあれば良いわけではありません」という小松Pの主張は、まさに脚本家の想いを代弁していると感じました。
物語の全体像やバランスを考慮に入れながらも、なおかつ場面場面の瞬間性や瑞々しさを生き生きと表現できる女優に、今後益々成長していって下さい。
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