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小松式演技論の総括(1)

連載開始から約5ヶ月かけてここまで書き進めてきた『小松式演技論』も、いよいよ次回で最終回を迎えます。私の拙い文章にお付き合いくださった皆様には心より感謝申し上げます。
フィナーレを迎えるにあたって、今回は、この連載を通して私自身が改めて感じたことや見つめ直したことをまとめてみたいと思います。

この連載の中で、私自身はインターネットの匿名性について物申してきました。しかし、この先しばらくは、この匿名性という強固なシステムが雲散霧消することはないでしょう。

そうであるならば、「それら匿名情報をどう評価するか?」という受け取り側のネットリテラシーが重要です。ネット上にあふれる不安定な情報を自分がどう受け止め、どう位置づけるかをしっかりと考える必要があります。

最近はネット上での罵詈雑言を苦にして自殺してしまうケースもあるようで、本当に心を痛めます。私自身は「出所が不安定な情報なんて相手にしなくていい。匿名の書き込みなんて気にしなくていい」と考えてしまいますが、実際に苦しんでいる人たちにとっては切実な問題でしょう。見えない敵と戦うことは確かにストレスの溜まる行為です。一日でも早くそのような悪環境から抜け出せることを願うのみです。

正直に言えば、3〜4年前の私であれば、ネット上の多種多様な匿名情報に心を振り回され、一喜一憂していたと思います。しかし、ここ数年、『表現とは何か?』というテーマを考え続け、いくつかの“核心”に自分自身で気付けたことによって、私は強くなれました。

昔の私は心の奥底で「いつかは芝居を諦めなくちゃいけない」という言い訳を繰り返していましたが、今の私は、ただひたすらに生涯をかけて表現を探求する覚悟です。社会的に成功するか否かは分かりませんが、少なくともこの先、私が表現活動を放棄することはありません。その点には自信があります。
確固たる視座のもと、表現者として生き続けることが私自身の幸せであると確信しています。

そう気付くことができたのは、やはり、妥協なく考え続けてきたからだと思います。『考え続ける』などと言うと大袈裟に聴こえるかもしれませんが、要するに、自分の中に芽生えた疑問や不安をごまかさずに、その解決法をひたすら探り続けてきた結果、私自身が何を大切にしているのかに改めて気付けました。

そして、このような思索活動こそが『哲学する』ということなのだと思います。哲学など、自分とは全く縁の無い世界だと思っていましたが、難解なのは哲学史であって、哲学そのものは誰の手の中にあるものです。そのことを今回の連載を通じて実感できました。


表現者は常に哲学者であれ―――、それが私の結論です。