小松式演技論の総括(2)

いよいよ、今回をもって「小松式演技論」は終幕です。
もしかしたら、パート2もあるかもしれませんが、ひとまずここで筆を置くことにします。


50回に渡って書き進めてきた私自身の考え方、視座、哲学、表現者としてのビジョンは、この先何十年経っても折れることはなないでしょう。

私自身、小松式演技論を最後まで書き続けられたことを大変嬉しく思っていますし、自信にも繋がり、幸せな時間でした。
ただし、現状維持は後退であり、思考硬直が堕落への第一歩だと思えば、私自身がこれからの表現者人生を通して、この小松式演技論をより、クオリティーアップ・ブラッシュアップしていくことも大切です。
勉強に終わりはありません。努力あるのみです。

今回、小松式演技論をまとめるにあたり、理想現実の座付き作家である猪本裕には大変お世話になりました。私一人では、とてもじゃないが50回にも及ぶ連載を続けられなかったでしょう。

この連載記事は、まず猪本が私をインタビューしてくれるところから始まりました。
主張したいことはたくさんあっても、それらを整理することのできない私に、猪本は「とにかく言いたいことを、思いつくままに喋ってください。整理するのは、後からでいいです。」とアドバイスをしてくれました。
私はその申し出を真に受け、順序も構成も考えず、言いたいことをひたすら喋り続けました。そのインタビューテープは優に10時間を超えたと思います。

猪本はテープの内容を余すところなく全て文章に書き起こし、それを連載50回分の構成に振り分けてくれました。正直に言えば、猪本が怒涛の勢いで進めてくれたその作業がなければ、私は(能力的に)この連載企画を引き受けられなかったと思います。

小松式演技論の内容は100%私自身の主張ですが、文章化にいたる実務作業そのものは、猪本との共同作業でした。猪本には大変感謝していると同時に、その仕事の早さ及び精度には改めて感動しました。


そして・・・・・・いよいよ、私のプロデュースする理想現実の第3回公演が近づいてきました。小松式演技論で語ってきたことを実践するために、私は今、妥協なき心構えで日夜稽古に励んでいます。

理想現実を応援してくださっている皆様に「私たちは向上しています」と胸を張れる作品を具現化するため、ひたすら考え続け、行動し続けています。
このブログを読み、私たちの活動に興味を抱いてくださった方々が居あるのであれば、ぜひ6月公演に足をお運びください。
公演の詳細は公式サイトにて。

最後までお付き合いくださり、本当にありがとうございました。

小松式演技論の総括(1)

連載開始から約5ヶ月かけてここまで書き進めてきた『小松式演技論』も、いよいよ次回で最終回を迎えます。私の拙い文章にお付き合いくださった皆様には心より感謝申し上げます。
フィナーレを迎えるにあたって、今回は、この連載を通して私自身が改めて感じたことや見つめ直したことをまとめてみたいと思います。

この連載の中で、私自身はインターネットの匿名性について物申してきました。しかし、この先しばらくは、この匿名性という強固なシステムが雲散霧消することはないでしょう。

そうであるならば、「それら匿名情報をどう評価するか?」という受け取り側のネットリテラシーが重要です。ネット上にあふれる不安定な情報を自分がどう受け止め、どう位置づけるかをしっかりと考える必要があります。

最近はネット上での罵詈雑言を苦にして自殺してしまうケースもあるようで、本当に心を痛めます。私自身は「出所が不安定な情報なんて相手にしなくていい。匿名の書き込みなんて気にしなくていい」と考えてしまいますが、実際に苦しんでいる人たちにとっては切実な問題でしょう。見えない敵と戦うことは確かにストレスの溜まる行為です。一日でも早くそのような悪環境から抜け出せることを願うのみです。

正直に言えば、3〜4年前の私であれば、ネット上の多種多様な匿名情報に心を振り回され、一喜一憂していたと思います。しかし、ここ数年、『表現とは何か?』というテーマを考え続け、いくつかの“核心”に自分自身で気付けたことによって、私は強くなれました。

昔の私は心の奥底で「いつかは芝居を諦めなくちゃいけない」という言い訳を繰り返していましたが、今の私は、ただひたすらに生涯をかけて表現を探求する覚悟です。社会的に成功するか否かは分かりませんが、少なくともこの先、私が表現活動を放棄することはありません。その点には自信があります。
確固たる視座のもと、表現者として生き続けることが私自身の幸せであると確信しています。

そう気付くことができたのは、やはり、妥協なく考え続けてきたからだと思います。『考え続ける』などと言うと大袈裟に聴こえるかもしれませんが、要するに、自分の中に芽生えた疑問や不安をごまかさずに、その解決法をひたすら探り続けてきた結果、私自身が何を大切にしているのかに改めて気付けました。

そして、このような思索活動こそが『哲学する』ということなのだと思います。哲学など、自分とは全く縁の無い世界だと思っていましたが、難解なのは哲学史であって、哲学そのものは誰の手の中にあるものです。そのことを今回の連載を通じて実感できました。


表現者は常に哲学者であれ―――、それが私の結論です。

過去作品に関する総評

今日は、理想現実が過去に生み出してきた作品について、自分なりにまとめてみたいと思います。


『DeepSummerTRASURE〜孤島に眠る幻の伝説〜』

本当の意味で私が初めて表現と向き合った作品です。
物語創作と真正面から向き合い、一から誠実に挑戦したという点で、本当に初めて“自覚して”お芝居をやったと言えると思います。
また、ビアンカ・マリーンドルフ役を演じていて、「ああ、表現者とはこういうことか!」と理解できた瞬間がありました。
ビアンカ役を演じたことで、私は表現者としての視座を手に入れました。
表現者冥利に尽きる瞬間でした。


『横濱荘狂想曲』

『生きる』ことや『死ぬ』ことをダイレクトに取り上げた作品でした。
正直に言えば、大変難しかったですし、その分、やりがいもありました。
この脚本を初めて読ませてもらった時の感動は今でも覚えています。
本当に「面白い!」と心から感じました。「自分がやりたい作品を、自分の責任においてやることができた」という点で、理想現実を旗揚げした意味や意義を改めて実感しました。
ただし、思い入れが強い分、出来上がりに対して、納得のいかなかない部分も少なくはありませんでした。それでも、とても魅力的な脚本だったので、私としては挑戦できて良かったと思っています。


『横濱荘狂想曲〜前奏〜』

裏理想現実Blogで公開した音声ドラマ。初めての声芝居で、まさに体当たり的な作品。
横井未来役を自分なりのイメージで演じることができて、大変楽しかったです。未来役に対しては、個人的に相当の愛着を持っています。


『ライターズ・ノート』

自分で原案を用意し、プロデュースした音声ドラマ。第一話を聴いた時は、とても嬉しくて、理屈にならない喜びみたいなものがこみ上げてきました。脚本家と一緒に原案から考え、自分のイメージをそのままシナリオにしてもらったので、“自分発信”という意識が強く、それで感動も大きかったのだと思います。
今になれば「こうした方が良かった」「こういう感じで読めば、もっとうまく伝わったのかな」等々の反省点も多いけれど、作品に対しては大変満足を感じています。


理想現実論(5)〜観劇アンケートへの返信〜

理想現実では、公演アンケートにご協力下さり、ご住所とお名前を明記してくださった方々へ、後日、お手紙をお送りしています。お書きくださったアンケートの内容に対して、理想現実としてのオフィシャルな返答を記したお手紙です。

「単なる宣伝戦略のひとつでしょう」と言われれば、それを頑なに否定するつもりはありませんが、アンケートを通して客席の声を届けてくださったことに対して、純粋に感謝の想いを伝えたいという気持ちが私の中では強いです。

そもそも、『今後の参考にさせて頂きたいので……』との趣旨でアンケートを集める劇団は多くありますが、その声をどのような形で参考にしたのかを観客側へフィードバックしている劇団は非常に少ないと思います。

観劇後の慌しい時間にわざわざ筆を執って頂いたのですから、せめてものお礼として、「この点を参考にさせて頂きます」「この点については、私たちはこう考えています、ご理解下さい」等々、誠実な回答をお届けできるよう心掛けています。

ご住所やお名前を書いてくださった方にのみ返答させて頂く理由は、第一にオペレーションの問題(連絡先が分からなければ、返事を出せないため)なのですが、それ以外にも、ご自身の素性を表明した上で意見を書いてくださったことへの私なりのリスペクトもあります。

このブログでも何回も書いたことなので、ここでは要旨だけを繰返すに留めますが、私は匿名性に立脚した意見表明を重視していません。それは、何も難しいことを意味しているのではなくて、正体を隠したままなら、何でも好きなことを無責任に発信することもできると考えているからです。

発信者の顔が一切見えず、誰も責任を取らなくてよい環境において表明された意見を、私は受け入れることが出来ませんし、信用することもできません。
仮にそのような状態で、批判記事を突きつけられても、逆に手放しに絶賛させられたとしても、説得力を感じないのです。
その点、素性をきちんと表明した方から届く温かい応援メッセージや、手厳しいお叱りは、本当に心に響きます。勇気をもらえるし、反省を促してくれます。大変感謝しているし、大切にしていきたいと思っています。

だからと言って(当ブログでも何度か表明したように)、私はお客様のために芝居を創る」という言葉には逃げたくありません。
自分の表現は、自分の責任において築いていく。
そして、その姿勢こそが真にお客様を大切にすることに繋がるのだと私は確信しています。

理想現実論(4)〜各種ルールの紹介〜

理想現実で採用されている代表的なルールを紹介させていただきます。

充実した創作プロセスを築くために必要だと思われる要素を考え抜いた結果、以下のルールに辿り着きました。当ブログ『新・小松研』をここまで読んでくださった方であれば、「なるほど、小松らしい」と、うなづいていただけるのではないでしょうか。


【1】プロデューサー完全トップ

理想現実では、作品創作の最終決定権を演出家ではなくプロデューサーである私、小松に置いています。「自分が面白いと思える作品のみをお客様へお届けしたい」という私自身のこだわりを具現化するためのシステムです。


【2】チケットノルマの廃止/出演料あり

稽古に集中できる環境をつくるために、理想現実では旗揚げ時より一貫してチケットノルマ制を採用していません。さらに、「演技=仕事」という価値付けを大切にするために出演者には(薄謝ではありますが)出演料をお支払いしています。


【3】稽古全日程参加

稽古場(=創作プロセス)を充実させるために、出演者には、原則的に『稽古全日程参加』をお願いしています。


【4】役者同士の演出合戦を禁止

理想現実では、出演者同士のみでお互いを演出しあう行為を禁止しています。


【5】出演者同士の飲み会禁止

酒の席で役者同士がお互いの芝居について個別に演出をつけあうことを回避するために、理想現実では、出演者同士の飲み会を禁止しています。
(もちろん個人的なお知り合いと、プライベートな形で飲みに行く分には構いません)
これは、飲み会へ参加しない役者に対して、「チームの和を乱している」等の理不尽な批判が集まることを避ける狙いもあります。

理想現実論(3)〜創作プロセスを重視したユニット〜

理想現実はプロセス主義のユニットです。仮に『理想の結果』と『理想のプロセス』のどちらかのみを選ばなければならないとしたら、私は間違いなくプロセスを選びます。

だからと言って、結果などどうでもいいと言っているのではありません。もちろん結果も大切ですが、そもそも良い結果を求めるために、私たちができることと言えば、日々妥協なく己を磨くことであり、その努力の軌跡はそのまま充実したプロセスを意味するのだと私は解しています。結果は神の手に、プロセスは我々の手に―――、です。

「結果がよければそれでいい」という主張も世間では根強いようなのですが、私に言わせれば、それはあまりにも楽観的。
自分ではコントロールできないものが『結果』なので、良い方に出ればいいかもしれませんが、悪い方に転ぶ可能性だって常にあります。そのリスクを無視して「結果良ければいいんだよ」というギャンブルに参加できるほど、私は楽観主義に染まれないし、染まりたくありません。

その点で、むしろ私は悲観主義なのかもしれません。悪い結果が出た時のことを常に想定してしまいます。と同時に、そこから何を学べるかも大切にしています。充実したプロセスを経たはずなのに、それでも悪い結果に見舞われた時こそ、表現者は成長すると考えているからです。

創作プロセスで手を抜けば、結局は『結果』に対する真摯さも失われてきます。悪い結果を突きつけられたとしても、「だって、脚本が遅れて稽古時間が少なかったのだから、仕方がないよ」と無邪気な言い訳を繰り返してしまうことにもなりかねません。
逆に、たまたま良い結果が出た場合は、そのラッキーに溺れてプロセスに不備があったことを反省せずに終わってしまいます。
負の相乗効果とでも呼ぶべきそのような構造を、私は打破したいと考えています。そのための鍵は、やはりプロセスの中にのみあるのではないでしょうか。

理想現実が重視する『プロセス主義』とは、つまり「結果に対しては言い訳ができない状態に自分たちを追い込む」という厳しさや誠実さのことです。『観客からの評価』という結果と『自分自身が今回はどうだっのか?』という反省的な結果―――、その両方を誠実に真正面から受け止めるためにも、まずは創作プロセスに全力投球することです。

そのための第一歩は、「わからないことはわからないときちんと表明する」ことにあると私は考えています。
納得できないことをそのままにせず、一度はきちんと演出家と話すべきです。
だからと言って自分のわがままを押し通すのではなく、共同芸術に携わる一員としてのマナーを守り、あくまで演出家と協力し合いながら物語を探求していく。そういう理想現実に成長していけるように、プロデューサとして日々のプロセスに全力投球していきたいと思います。


理想現実論(2)〜時間切りの稽古〜

 
理想現実では、時間切りによる稽古運営を実践しています。
具体的に書けば、以下のようになります。

18:30〜19:15 シ−クエンス1 『●●●』(脚本01ページ〜07ページ)
19:30〜20:30 シ−クエンス2 『●●●』(脚本08ページ〜20ページ)
20:40〜21:20 シークエンス3 『●●●』(脚本21ページ〜25ページ)

なぜ、このような稽古法を採用しているかと言えば、まず第一に「演出がつかないシーンをなくす」という配慮からです。


小劇場においては、脚本が遅れたり、その他諸々の事情によって、『演出がついているのは前半だけで、後半は役者が自分の考えのみで動いている』というケースがしばしば見受けられます。前半ばかりを稽古して、後半の演出が間に合わないパターンです。

私自身も過去において、そういう体験を何回か味わったし、そのことに強い不安と不満を覚えました。せめて自分でプロデュースする団体では、そのようなトラブルが起らないようにしたいと考え、理想現実では“時間切りの稽古場”を導入したのです。

時間で区切ることにより、作品全体を満遍なく稽古できますし、そのことでムラが出なくなれば物語のクオリティもアップします。
稽古が進むにつれて役者や演出家が「ここは、もっと時間をかけて稽古したい」と感じる場面も出てくるので、それに対応するための時間も、もちろん別枠で設けてありますが、原則的には事前のスケジュール通りに台本全体を当たっていきます。


役者の立場から言っても、「いつ、何を、どれくらいの時間を掛けて稽古するのか?」が最初に見通せたほうが気分的に楽ですし、いつ何をやるのかが分からなくて、不安な状態のまま稽古場で待たされるのは辛いものです。


また、作品創りの実務においても、時間切りによって全体を見渡せる稽古法は私にとってべストです。
私の理想とする物語表現法は、全体の構成を意識しながら、計算に計算を重ねるスタイル。ラストをどう表現するかを考えた後、そこからファーストシーンの彩りを工夫したりします。

物語表現の生命線は構成の妙技にあると考える私は、常に全体像を意識した演技構築を心がけていますし、今はそれが何よりも楽しいことです。

お恥ずかしい話、かくいう私も、前半部分のみの脚本で稽古をすることが当たり前だった時期があります。
当時の私は、物語表現の本当の面白さに鈍感でした。
今、あの状態に戻れといわれても、到底無理です。
結末が無いのに、どうやって前半を作ればいいのでしょうか。


過去の苦い失敗を今後の糧にしていくためにも、反省すべき点は大いに反省したいと思います。

理想現実論(1)〜定刻開始の理由〜

※小松式演技論の1回分が抜けてしまっていましたのでアップいたします。


小劇場において「開演時間が押す、遅れる」ことは、もはや常識と言っても過言ではありません。
遅れてくるお客様を5分から10分程度待って、それから開演する形です。
それを、ある種の“ファンサービス”と考えいる劇団も少なくないのでしょう。

しかし、理想現実では『定刻開始』をユニットの基本原則としています。
開演時間となったら、遅滞なく開演することを心がけています。その理由を簡単に述べておきます。

開演を遅らせることは、確かに遅れてきた方々にとってはサービスになるのかもしれませんが、座席で待たされている人からすれば迷惑な話です。
少なくとも、私が客であれば、チラシに明記されている時刻に始まって欲しいと思います。

たとえば観劇後に予定のあるお客様は開演が遅れることで、最後まで観られなくなることだってありうります。
時間通りに来ている人たちが、遅れてきた人のために損をする構図は、個人的に納得がいきません。

遅れてきた人からの「もう始めちゃったんですか?10分くらい待ってくれてもいいじゃないですか」という苦情と、
ずっと待ってくださっていたお客様から届く「なえ開演時刻に始まらないのですか?」という苦情−−−、
そのどちらに対して論理的な謝罪ができるかを考えれば、自ずと答えは出ると思います。

こういう助言もあるでしょう。
「遅れてきた観客が観劇途中で入場してくると、かえって他のお客様の集中力を途切れさせてしまう。それならば少々開演を遅らせてでも、すべての観客を座席に通してからお芝居を始めた方がいい」−−−。

しかし、この主張にも私は賛成できません。5分10分開演を遅らせたところで、その後に入ってくる観客がいることも考慮すれば、上記の主張は際限が無くなってしまいます。

実際、そのように考えて10分以上開演を遅らせる劇団もあったりしますが、客席で待たされている方には、たまったものではありません。

時間通りに来てくださっているお客様を大切にするということは、「途中入場によって集中力が……」云々よりも、明記された時間通りに物語りを始めることにあると私は考えていますし、それが主催者側の責任でもあります。


また、実務的な側面から、“客席問題”についても、ひとつ言っておきたい。
うちはまだ観客動員力が弱いので、その手の現象は起きようもありませんが、人気劇団の中には、通路にまで座席を作って座らせて−−−という客席作りを実践しているところもあります。

このやり方に、私は異を唱えたいと思っています。
なぜなら、そこまで座席を埋められてしまうと、途中退場したくても、出るに出られなくなってしまうし、災害時の非難活動という観点からも危険です。

そもそも、芝居が嫌いなものであれば、途中で帰る権利を観客は持っています。
それなのに、帰るべき通路がないのは問題だと思います。

著作権へのリスペクト(7)〜小松の主張〜

知的所有権、著作権について語り始めると、世の中に問いかけてみたい問題点が次から次へと頭の中に浮かんできて、収拾がつかなくなります。

このままでは著作権絡みの話題が永遠に続いてしまいそうなので、この辺りで強制的に区切りをつけることにします。


小松式演技論“著作権の章”の最終記事として、今日は著作権について今現在、私が感じていることや考えていることを思いつくままに書いてみます。

少し前の話になりますが、日本公開を控えてた映画がネットを介する形で公開前に流出し、その犯人が逮捕される事件がありました。
このニュースを知った時、私は本当に悲しくなりました。
その映画の監督や関係者を個人的に知っているわけではありませんが、いろいろなことを想像すると悲しくて仕方がありませんでした。


あくまで私の想像ですが、その監督は自分がずっと一生懸命頑張ってきて、努力してきた結果として映画が撮れるようになり、そこにたくさんのスタッフや役者が加わることで、その作品は生まれてきたのだと思います。それを第三者が勝手に公開するなど、断じて許される行為ではありません。そんなことができるその犯人は、いったいどういう神経をしているのか。


その監督自身がこの事件についてどのように考えているのかは分りませんが、もしも同じような被害に私が遭遇したとしたら、悔しさのあまり、涙が止まらなくなると思います。
自分や関係者が人生をかけて築き上げてきた作品を、すべて台無しにするような犯罪です。今思い出しても怒りと悲しみがこみ上げてきます。
ネット上の法整備はもちろんのこと、表現を志して頑張っている人たちの努力が報われるようなシステムを、私も私なりに模索し続け、積極的に提案していきたいと思います。


少し硬い話になりますが、私たちがこうして日々生活できることの土台には、社会的な恩恵が常に忍ばされているのです。
洋服を買えることも、食べ物を手に入れられることも、社会というシステムがあるからこそだし、それこそインターネットを便利に利用できることにも社会的な恩恵が大きく関わっています。

もちろん私たちはその恩恵を受け取る権利があるわけですが、それと同時に、社会的な義務や責任を果たす立場にもあります。

権利を享受するだけでなく、そこに付随する責任もしっかりと果たしていく。そういう世の中を築いていく為に私は表現者として作品を通していろいろなことを訴えていきたいと思います。

次回からは私がプロデュースする演劇ユニット『理想現実』について、いくつかのテーマで書かせて頂きます。

著作権へのリスペクト(6)〜ネット関連で気になること〜


前回、無断動画配信問題について私見を述べさせてもらいましたが、インターネットに関することで、もうひとつ気になっていることがあります。


世の中で話題になっているブログを拝読すると、さすがに人気を博することだけのことはあり、執筆者(管理者)の独創性溢れる文章表現に感銘を受けうることも多々あります。

浅学な私などでは思いもつかない社会批評や哲学的思索がユーモアたっぷりの分りやすい文章で綴られているブログなどに出会うと、その時点でパソコンの釘付けとなってしまいますし、大いに刺激を受けるものです。


しかし、そういうブログが存在する反面、芸能人の写真ばかりを載せているブロガーもいます。
管理者に確認を取っていないので、断言はできませんが、恐らくそれらの画像は無断転載されたものでしょう。
有名人(芸能人やニュースキャスター、スポーツ選手)の写真を雑誌やインターネットから勝手に切り取ってきて、自身のブログに転載することは、問題のある行為だと私は思います。


アイドルの写真がアイドル雑誌に掲載されるのは、その人がその雑誌に出ようと選択したからであって、見ず知らずのブログに写真を載せて貰うためではありません。
いくらそのアイドルのファンだからといって、本人の意向も確認せず、勝手にその人の写真を使用しているブログに対しては、何か釈然としないものを感じてしまうのは私だけでしょうか。


この問題は著作権というより肖像権に関わることですし、(条文ではなく、判例で認められている権利という点で)肖像権については法的な解釈も難しいのでしょうが、どちらにせよ、「本人の意向を確認せずに、勝手にやってしまう」ことに私は異を唱えたいのです。


「小松は神経質過ぎる。そのアイドルだって宣伝になると、喜んでいるのでは?」という助言があることは百も承知だし、実際に喜んでいるアイドルもいるとは思います。


ただ、(私はアイドルでないし、人気者でもないので、このようなことを書くと失笑されるかもしれませんが)少なくとも自分であれば、どこかのブログで自分の写真が勝手にアップされているのを見つけたら、不快に思うし、苦情を申し立てると思います。


「それでも構わない」と思う人と、「それは嫌だ」という二派に分かれるのであれば、まず「嫌だ」と思う人の立場を守ることを原則としてもらいたいです。

その上で、「それでも構わない」という意向を表明している人たちの写真だけはブログ上で使えるようにすればよいのではないでしょうか。
それが一番ロジカルでフェアなオペレーションだと私は考えています。